谷山浩子さんの40周年こんさーとまとめ(前半)
谷山浩子さんの40周年こんさーとまとめ(前半)
谷山浩子さんの40周年こんさーとまとめ(前半)
ほかのひとがすてきなレポートかいてるし、もういいっかなーと思ったのだけど
自分用メモにまとめておきます。
前半照明がくらくてメモとれなかったのでうろおぼえ…
多少まちがってても、そこは脳内で補完してください^^;
(大阪のをメインにかいています)
大阪は1列目の中央からちょっと右、東京は13列目の左ブロックでした
大阪では最前列で下むいてメモるのもはばかられたので
ステージみながらてきとーにかいたので字がほとんどよめません^^;
東京では途中まで客席がまっくらだったのでメモとれませんでした。
メモがないと自分のキオクはさらにいいかげんなものになります^^;
あとでヒトサマのレポをみて、あれー?って思うこと多し…
混乱するので、今回はヒトサマの日記はいっこしかよんでません。

ステージは、中央にピアノ、向かって右にAQさんのキーボードブース
左手にふたりぶんのいすと譜面台。
照明がおちたまま
大阪では右手から、東京では左手から浩子さん登場。
多分大阪のほうが暗かったのだと思います。
浩子さんはいろんなものにつかまりながらピアノにたどりつきました。
浩子さんにスポットがあたった状態でピアノ…
きいたことがあるようなないような短いフレーズをひいたあと
「うまれて初めてうたをつくったのは7歳のときでした」
という語りでスタート。

一瞬なにがはじまるの?と思いました。
NHKであなたのメロディという番組があって
シロウトが譜面を送るとプロひとが編曲してうたってくれるのだそーで
それをみていた7歳の浩子さんは
「これならわたしのほうが上手にできる」となぜか思ったそうです。
7歳のくせにって自分ツッコミ入りで。
ピアノはならっていたので、譜面のかきかたはわかっていたからと
つくって応募したうたがこれです…ということで

1-1)ほしのよる

子どもの頃から浩子さんは夜とか星とかすきだったんだなあ…
そして、みじかい(笑)
当時の浩子さんは、これでちゃんとした1曲だと思っていたそうです。
「なんの音沙汰もなかったけど!」
っていいかたは、東京のほうが力強かった気がします(笑)

ちなみに、応募したときは伴奏まではついてなくて
このコンサートのためにつけたそうです。

それはそれとして、うたをつくるたのしさにめざめ(?)
当時漫画もすきで(東京ではここにヘタだけどってはいってた)
そのふたつが浩子さんのあそびだったそうです。

 実はわたしも過去に1曲だけ(強いられて)作曲とゆーものをしましたが
 やっぱりとても短かった!(えれくとーんの課題だったのよ)
 しかも1ばんと2ばんの長さがちがっててめっちゃつっこまれました。
 なんでそこでくりかえすの?とか。
 小学生のときのはなしです。
 だって音楽の理論とかなーんもわかってないのに作曲編曲やるんだよー…
 ちなみにまんがもかいてて、そっちはいまもやってる…下手の横好き。
 そして絵をかくために中1でエレクトーンはやめました。 以上蛇足。

10歳の浩子さん。←これであってたっけ??
フェニックスホールでうたった唯一のクリスマスソング…
って、まさかここでもういちどあれがきけるとは!と
わくわくしすぎててトークの内容うろおぼえです^^;;
東京ではなんかもっとちがう言い方してたような気がするけど…
「唯一のクリスマスソングなのに諸行無常をうたっています」
みたいな説明。
そういううたがあるってことは、12月にあるコンサートで折りに触れて
話題にはでていたのですが、きいたのはおととしだっけ?
フェニックスホールのコンサートがちょうどクリスマスだったので
初披露だったのでした。

1-2)クリスマスツリー

でも(でもっていうのは諸行無常をうけて)、わたしこのうたすごくすきです。
サビ?の部分のメロディとか、とても10歳とは思えない!
超マイナーコードなんだけど、すごいよー…
「くりすまーすつりー♪」のとこがとくにすきです。
3回もきいちゃったのでもううたえちゃうぞ!(どこでうたうんだよ)
メモった歌詞をかきだしてて気がついたんだけど3ばんはみじかいのね。

さて、10歳のころから浩子さんは曲をつくりまくり
歌謡曲の作詞作曲をするひとにあこがれていたそうです。
筒美京平さんや阿久悠 さんのようになりたかったとか。
タイガースや中村晃子がすきで、
特に中村晃子さんの「虹色の湖」といううたが大好きだったそうです。
中学生のころは、近所にあったキングレコードに
テープにうたを吹き込んでは、月一でディレクターさんにきいてもらってたそうです。
「今でいうことろの持ち込み」っておっしゃってましたが
その度胸ってすごい!
14歳のとき、フィンガーファイブの前身であるベイビーブラザーズの
シングルのB面に曲提供したのが作曲家としてのデビュー。

そして、LPつくってみない?
(当時はLPだったのよー!という注釈もわすれずに^^;)
といわれて、うたうことをまったく考えてなかった浩子さんは
LPをつくってもらえるという魅力にまけて?
仕方なくうたったそうです。
それから数えて40周年。
それが「静かでいいな~谷山浩子15の世界~」
その中で14歳のときにつくった、諸行無常のうた…

 東京のトークでは、小川未明さんがすきだったとか
 アトムがすきでよんでて、原作は悲しいお話がおおかったとか
 ネガティブだったみたいなことをおっしゃっていました(多分)
 …まっくらなのでメモに単語しかかいてない…

1-3)天使のつぶやき

14歳で「わたしもいつかひとりになるのね」とか
わかっちゃいないのにつくっていました!とかとか…

生まれてはじめてコンサートをやることになったとき…
場所はどこなのかわすれたそうですが
何をどうしていいのかわからず、1時間半くらいで27曲(すげえ!)
こういうカンジ(つまりピアノのまえにすわったまま、トークもやる)で
ハタチの本格デビューのあとも、1.2年はそんなカンジだったとか。
残念ながらわたしはまだその頃は浩子さんの存在すら知らなかったです…

 ただ、これもソロツアーはじまったばかりのころ
 うたって、ピアノにむかったままおじぎして、うたって…の
 くりかえしのコンサートだったって話は何度かききました。

今やってみるといたたまれない…こっち(客席がわ)むきたくて仕方ない
とかおっしゃってました。
(東京ではもうちょっとこのままですっていってた)

高校生のとき、ステージ101のレギュラーになって
16歳のときポプコンに参加
(東京ではさらにおともだちと一緒にだした曲もあったことを告白)
この話はあちこちでされていますが、
浩子さんはなんの根拠もなく、自意識過剰でもなく
自分はグランプリだと思い込んでいたそうで
グランプリの下の優秀賞3曲の下の8人くらいの入賞だったことが
とっても不満だったようです。
これがシングルで2度めのデビュー。
つくった当時は2番までしかなくて、
東京大会にでるときに、もうちょっと長い方がいいといわれ
間奏なんかもいれて今のカタチになったそうですが、
今回はつくったときのバージョンで…

2)お早うございますの帽子屋さん

 実はこのときのポプコンのLPが家にありました。押し入れのかたすみに。
 でもうちにはプレイヤーがなかったので、高校のとき先輩にあげちゃった…
 もったいないことしたなあといまでも思っています。
 音はカセットテープにとってもらったのできけるんだけど…
 なんであげちゃったの!あのときのわたし!!!
(多分エレクトーンかったときにもらったとかそんなんだと思う)

あらためましてごあいさつします。
静かでいいなから40周年をむかえた谷山浩子です。←こんないいかたじゃないけど
(東京では、40周年だしご祝儀でとか初めてきたってひととか
 もちろんいつもの方も、チケット完売しました!とか
 大阪でもやったので今日がファイナルです!とかそんなカンジ
 アンケートにはじめてきましたってひとがいっぱいいたそうです)

谷山浩子で検索かけたら、風邪でこられなくなったので
50周年にはいきますってひとがいたそうです。
なーんていってるあいだに、キーボードブースに山川さん登場。
あれ?なんでそこに??って思いました。

さて、10歳からはじまって弥生時代くらいまできました。
18歳くらいまでは抵抗してて、
まだソングライターになるチャンスをうかがってたそうですが
そういったチャンスもなく
どちらかというとシンガーソングライターブームで
自分のうたをきいてもらうには、うたうしかないとおもったそうです。
そして20歳のときヤマハと専属契約して、これが本格デビュー。
それがこのうたです(と上をゆびさす浩子さん)
(東京では、ポプコンの話から自分のすきなものは世間にはうけない
 ということに気がついたとか、筒美京平さんや阿久悠さんのように
 みんなのこころをわしづかみにしないといけないのだなと思ったとか
 そんな話をされていました)

 河のほとりに が流れます。

このあと、ねこの森には帰れない…
シングルとアルバムでバージョンがちがいます。
いろんな事情があって…えらいヒトの意見はきかないと…といいかけ
よけいなこというのやめよう…とかいってるうちに
流れるうたが、窓、あやつり人形とうつりかわり…
(東京では、大ヒットもないまま今日までやってきました…とか)

レコーディングからステージまでの当時の相棒、さっきからそこにいます
山川恵津子さんです!
わたしはエツってよんでます。
レコード大賞で最優秀編曲賞もとった大先生です!
でも、同い年です!
そんな山川さん編曲のうたのなかから、コンサートではバンドだけど2人で…

3)カントリーガー(シングルバージョン)
4)ねこの森には帰れない

カントリーガールのコーラスがすっごくよかった♪
ねこ森では、山川さんが赤いピアニカとキーボードを演奏。
ピアニカがいい味をだしていました♪
大阪では譜面台にかくれてよくみえなかったのですが、
ピアニカひきながら右手はキーボードという
かなーり器用なことをなさっていたような…(同時ではないけど)

ここでおおむねメジャーなうた?をやってしまったせいか
「ききたいうたきけたからいいやって帰らないでね!」などという浩子さん。
どこまでもマイナス思考というか自虐趣味というか…

 東京のみのトーク…17歳のとき、ねこの森にはかえれないみたいなのは
 他になかったそうで、ほとんどキワモノ扱い、
 メルヘン歌手とかいわれて孤独でした。
 窓をだしたとき、音楽評論家のレビューに
「ギリシャの海もいいが、これから先どうするのか、
 このままではアレなので
 リアルな大人の女性のうたをうたったほうがいい
 メルヘンばばぁになりたければそれでいいが」
 とかかかれちゃったそうで…
「おかげさまでなりました!」といってのける浩子さん。
 覚えてますよ!何十年も!って。
(そしてその部分がよりによってサンスポの記事になってる^^;)
「谷山浩子、40周年で“メルヘンばばぁ”に」←これがタイトル…
 ※サンスポは全国紙ですが、さすがに関西にはその記事はのってなかったそうです。
  ネットのをよみました。

さて、ここで生涯唯一のスランプをむかえてしまったという浩子さん。
(この書き方だと窓の酷評のせいみたいだけどそういう流れではありません)
10代のときにつくった貯金はなくなるし、
シングルでうれる曲なんてどういうものなのかとか
すきなものとのギャップでまっくらになったそうです。
突然ぬけだしたきっかけはこの曲でした…

 真夜中の太陽 が流れます。

寒い夜、暗い部屋…ってほんと暗い。
でも、これをつくって急につきものがおちたそうです。
売れそうにないへんなのもどんどんできたので
それはきかせずにいたそうですが…

そして橋本一子さんとの出会い。
レコードやさんで会って、すごくすきになって
帰りの方向が同じなので同じタクシーにのって
「ほかのひとのアレンジしたことありますか」
と、突然たずねたそうです。すげえよ、浩子さん…
「ない」っていわれたのに
わたしのアレンジしてください!とかいっちゃったそうで…
「まず(どんなのつくってるか)きかせてくれる?」っていわれたとか。
そりゃそーだよね。
それでへんな曲もふくめたデモテープをつくってわたしたら
「椅子からずりおちた」ってくらい気に入ってほめてくださったそうです。
そんなふうにほめてもらったのが初めてで、うれしくて
調子に乗ってどんどん曲ができたとか…
そしてプロデュースまで手がけてくださったのがこれ!

 時の少女 が流れます。浩子さんは超ゆれていた…

いっぱいできたへんなうたが集まっています。
ほかに、「たんぽぽサラダ」「水の中のライオン」を一緒に。
ここで第二期黄金時代?がやってきて、
すきなようにすきなうたがつくれるようになりました、とか。
(こんなはなしであってたっけ??)
話している間に山川さんは左手の椅子に、外側にネコさんがすわり
キーボードブースにはAQさんが。
まあAQさんはいつもながらへんなおどりをしながらはいってきましたけど(笑)
(ちなみに大阪ではわたしの位置からはネコさんと山川さんのお顔は
 完全に譜面台にかくれておりました。キーボードブースにいた山川さんも…
 AQさんは譜面台がなくなってたので、顔はみえました)

 SEAGULL が流れます。

そして、一子さんの人脈でしりあって、
今ではなくてはならない存在になったのが、石井AQさんと斎藤ネコさんです!
AQさんはコーラスもやってたそーで、
「声はその当時からおおきかったです」とかなんとか。
「プロデューサーズです!」とも。
平均年齢はいいません…って。
(でも、山内さんのブログに47歳で最年初ってかいてあった)

その3枚のうち2枚目、タイトルの由来にもなった
「たんぽぽ食べて」と
代表曲にもなっている、NHKのみんなのうたから…

5)たんぽぽ食べて
6)恋するニワトリ
7)まっくら森のうた

たんぽぽ食べては照明が真っ赤になってて
なかなかショーゲキ的でした。
イントロはネコさんのバイオリンからスタートして
セリフがはいって、音がかさなっていって
山川さんのコーラスであやしさ倍増!
やーーーすごいよかったーv

さて、80年代になると
アイドルのひとへの提供曲に、まんがのイメージアルバム
ANNにニャンニャンしてね…など大忙しの浩子さん。
(東京のみ…マイクにのりにくい声だといわれて「谷山浩子です」って
 高い声をだしていて、それにあわせてキャラもつくっちゃってたそうです
この頃、一生分の有名人にあった…とか
髙橋留美子先生の仕事場にお邪魔したらすっごいちらかってたそーで
まあ、お忙しい時期でしたしねーとかおっしゃってたけど
や、漫画家の仕事場なんてそんなもんじゃ…とココロの中でつっこんでみたり。

当時、世間はバブルだったわけですが
特にその恩恵もうけず…
と思っていたけど、いま思うと関係なくもなかったとかで
それが顕著に出ていたのがスタジオ。
場所かりてからアレンジするとかふつーだったそうで
すごい人だと3ヶ月も借りっぱなしのひともいたとか…
(しかも来ない日もあって今では考えられないことだとのこと)
それにくらべたら浩子さんたちはつつましい方だったそうです(笑)
そして、バブルだからといって大ブレイクするわけでもなく…
(東京では…エツはブレイクして大もうけしてたよね!とかいって
 編曲には印税はいらないのよ! …そうだった…なんて会話が…)
その頃よくやってたANNのテーマ曲、名アレンジです!
「印税は入らないけど!」…
そして、緑の胃薬サクロンのCMソングで、ANNでタイトルを募集した曲。

8)てんぷら☆さんらいず
9)風になれ~みどりのために~

80年代のおわりに大きな転機がやってきました。
個人的なことで、そとからみてもわからないことだけど
うたの作り方がかわったそうです。
それまでは、詩が先とか曲と詩が同時だったのが
曲からつくるようになって、とてもうまくいったそうです。
そのきっかけがこのうた…

 冷たい水の中をきみと歩いていく が流れます

われながら名作☆と自画自賛の浩子さん。
曲から先につくったうたの多くが「冷たい水~」のなかに
たくさんはいっているそうです。
曲作りが自由になって題材もフリー、曲もフリー、
つくりたいものがつくれるようになって
10代の頃の自分がきいてたら、ファンになってた!って。
すっかり自由になったうたは、15分の休憩をはさんで
たっぷり大増量で2部にお届けします!
…ということで1部完。緞帳がおりました。

 ちなみに、大阪では、風になれ~のあとのトークを
 バブルの話のあとにつないじゃって、冷たい水~もながれちゃって
 10代でおもってたうたがつくれるようになって
 10代の自分がきいたらファンになってたと思う!
 後半の曲…
 までいったあと「ここ、この話じゃない! なんでこのひとたち
 まだいるの?って思った…」っていいながら山川さんとこにいって
(多分助けをもとめてたんだと思うんだけど)
 「ふつーにきいてた…」なんていわれてあわあわする浩子さん超かわいい!
 山川さんもかわいい! なんかぽやーんとしてて。
 いまのは次の2曲のあとにはいります!
 わすれてとっといてあとでいれてください…
 すっごいおこられる><
 シングルになった2曲をこのメンバーでやります。
 (曲紹介)
 てんぷら☆さんらいずは名アレンジ!
 レコード大賞とった小泉今日子さんのうたよりこっちの方がいい!
 といってうたったあとしゃべってるあいだに3人が退場しているはずだったのね。
 もっかいながします?といって冷たい水をもっかい流していました。
 ええ、なにごともなかったですよ☆
 90年代のフリーダムなうたは後半に。長いです。
 トイレちかいひとはいっておいてください(笑) で1部完

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